鈴
「ぶはあっ!」
薄い布団を接ね除けて起き上がり、大きく息継ぎをした。
そのせいで低い天井に頭をぶつけそうになった。ここは田舎のみすぼらしい屋根裏部屋
で、屋根を支える垂木がベッドのすぐ上に迫っている。
「はあっ、はあっ……はあ……」
朝だ。日の光がまぶしい。
さっきまでの娘びやかな世界の感触が残っている。その残淳に手を伸ばしたくて、諭を
閉じる。確かに私は、クジラの鼻先に立ち、歌っていた。華やかな衣装を着て、のびのび
と、思いのままに、歌っていた。
験を開けると、目の前にあるのはシーツの上の、表示の消えたスマホだ。その暗い表面
に、日に照らされた自分の姿が映り込む。中学校の頃から着ている色褪せたダサいパジャ
マ。寝癖のついたボサボサの髪。半開きの目。
そして、頬に散らばった、そはかす。
それは私をとても憂鬱にさせる。胸がふさがれそうになって、ため息が漏れる。
「……はあっ」
すると、
「鈴1?」
1階から父さんの声がした。「どうした1?」
焦る。
ひょっとして漏れ聞こえてしまっていたのだろうか?
もちろんここは防音室なんか
じゃなく、ただのみじめな7歳の女子の部屋にすぎない。布団の中にくるまるしか、音が
外に漏れるのを防ぐ方法はない。 いつもより声が大きかっただろうか?
ら……。後悔の冷や汗が背中にじっとりと浮かぶ。
「な、何でもない……=」
ベッドの上で四つん這いのまま、慌てて返事する。
不審に思われて2階へ上ってきたらどうしよう? いや、来ないとは思うけど。でもも
「あっ」
ベッドから手が滑り、ドサッ、と顔から無様に落ちた。
制服に着替えて、1階に下りた。
父さんの姿はなかった。仕事へ行く準備をしているのだろう。
縁側の戸を開けてフーガを外に出してあげて、ひんやりした朝の空気を入れた。リビン
グとダイニングを軽くほうきで掃き、テーブルに出しっぱなしの雑誌を片付けた。お湯を
沸かしているあいだ、庭の花を花瓶に挿し、台所の写真立ての横に置いた。マグカップに
ティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。紅茶の香りを含んだ湯気が沸き上がる。写真立ての中
で、今日も母さんが微笑んでいる。
庭でじっと待っているフーガに、ごはんをあげた。白に薄い茶色の毛が混じっているせ
いで、遠目には薄汚れて見え、お風呂に入れてもらえない可哀想な犬に見える。右の前足
の先が、怪我で失われている。イノシシ用の罠にはまって、ちょん切れてしまったのだ。
ピンク色の地則肌が見えている足を浮かせ、危うくバランスをとりながらごはんを食べてい
る。保護犬としてうちにもらわれてくるまで、やっぱり可哀想な犬だと思われていたのだ
ろうか。縁側に座って紅茶を啜りながら、フーガをじっと見ていた。
日焼けした肌に紺のTシャツを着た父さんが、仕事道具が入ったリュックを肩に掛け、
ガレージに出てきた。
「鈴、送っていこうか?」
フーガを見たままマグカップから口を離さずに、私は答えた。
「夕ごはんは?」
「……いい」
「……そっか。じゃあ、行ってきます」
父さんは、困り顔だったのだろう。見なくてもわかる。四輪駆動の軽自動車のエンジン
がかかる。バックしてから切り返し、坂道を下りてゆく。小石をぱちぱち弾くタイヤの音
が、遠ざかっていく。
目を合わさなくなって、どのくらいになるのだろう。まともに話さなくなって、どのく
らい経ったのだろう。一緒にごはんを食べなくなって、いったいどれだけの時間が流れた
のだろう。
フォン、と通知音がした。
スマホの画面に、ポコッ、とフキダシが出る。
《ベルは、仮想世界『U』が生み出した、最高の美女》
世界中の言語が、瞬時に翻訳される。
《非常にユニークで稀な楽曲》《ベルの歌は自信に満ち溢れている》《0億アカウントの
中で一番注目される存在》
フキダシは先を争うように次々と上がり、瞬く間にベルのアイコンの周りを埋め尽くし
た。
でも、私には喜びも達成感も高揚感もない。ベルがどんなに注目を集めても、なんの関
係もない。縁の欠けたマグカップに口をつけたまま、自分の殻に閉じこもる。
あるひとつのコメントを載せたフキダシが、一際大きく膨れ上がっていく。最も注目さ
れるコメントを拡大して表示する、フキダシの機能のひとつだ。
凄まじい数のフコメントの中で、最も多く注目されたコメントは、
《彼女は一体、誰?》
だった。
クンッ、とフーガが顔を上げた。
私の塞ぎ込んだ様子を、気にしているように。
世の中のほとんどの人が知らないと思うけど、四国·高知は、覆いかぶさるように連な
る険しい山々と、その谷間を流れる青く輝く美しい清流が育む、豊かな風土が自慢の県
だ。一五○年以上前には、それまで長く続いていた日本の封建社会を劇的に構造改革した
人物を幾人も輩出したことがあり、これもまた自慢のひとつだ。日照時間は全国でトップ
クラス。お酒の消費量もトップクラス。そのせいか人柄はあっけらかんとして、気さくで
明るいと言われる。でもそんな中にだって、暗い子もいれば、いつも下を向いている子
だっている。
そのひとりが、私だ。
30軒ほどの家々が山の斜面に連なる集落の片隅に、私の家はある。見下ろした先に仁淀
川という川が流れていて、沈下橋で対岸と繋がっている。沈下橋とは、欄干のない橋のこ
とで、川が増水して橋が沈んでしまっても流されないようにできている。私はこの橋が沈
まない限り、毎日渡っている。今日も仁淀川の流れは、静かで、青い。
たまに観光客がレンタカーでゃって来て、わー締麗、とか、ホントに青いんだねー、と
か言って、沈下橋の上で何枚も写真を撮っている。素敵な村だよねー、とポーズを取る。
彼女たちはこの地域の真実を知らない。
スクールバッグを脇に挟んで石段を下り、急な坂道をパタパタとローファーを鳴らして
歩く。掃き掃除をしている近所のおばあさんが、あら、鈴ちゃんおはよう、とか、いって
らっしゃい、とか、かつては声をかけてくれた。でも今はない。多くの家の雨戸は、固く
閉じられている。亡くなったり、市内の方に引っ越したりして、徐々に住む人が少なく
なっていった。仁淀川の流域には、そんな集落がいくつもある。90年代初めに「限界集
落」という言葉を、ある社会学者が生み出したのも、この近くだと言われている。最盛期
と比べて、驚くほど人が減った、と大人たちが言うのを、小さな頃から何度も聞かされ
た。ここは日本中のどこよりも早く、人口減少、少子高齢化社会の最先端を突っ走ってい
る。それは紛れもない事実だ。
坂道を上り、国道に出たところに、停留所がある。錆びついた時刻表には、朝と夕方に
しか時間が記されていない。乗り過ごしたら、遅刻どころじゃない。
しばらくして、バスがやって来た。うしろの、いつもの席に座る。車内は、誰も乗って
いない。停留所を次々と通過していく。乗ってくる人も誰もいない。揺られながら、運転
席のそばの掲示板を、ぼんやりと眺める。
『このバス路線は9月末日に廃線になります。○○交通』
やがて誰も住まなくなる場所に、私は住んでいる。荒波が迫る切り立った崖のすぐそば
に立たされている。いよいよこれ以上はない、世界の果てにいるような寄る辺のない気持
ちになる。
バスを降り、JR伊野駅の改札を通って、ホームに停車する汽車(高知では列車のこと
を汽車と呼ぶ。正確には軽油で走るディーゼル車)に乗り換える。がら空きの車内の床に
差し込んだ朝の光が、反射して振動している。停車する駅ごとに少しずつ、他校の制服を
着た高校生や中学生が乗り込んで来る。街の中心に近づくほどに、床の光はだんだん見え
なくなり、2両編成の車両は、お客さんでいっぱいになる。車内アナウンスが、私が降り
るべき駅の名前を告げる。
学校への道で、大勢の同じ制服と合流する。一緒になって緩やかな坂道を上る。私はそ
の中のひとりだ。そのことは私に、とても安心を与えてくれる。
夏の日差しが、眩しい。
去年の秋。
中庭のシンボルツリーの前で、吹奏楽部が演奏していた。それをたくさんの生徒たちが
取り囲んで聴いている。
吹奏楽部の発表はいつも人気だ。ただ演奏するだけではない。奏者全員が、演奏に合わ
せてステップを踏む。躍動感溢れる楽しげな踊りだ。どの楽器もステップをピタリピタリ
と合わせていて、それでいて演奏がよれたりぶれたりすることがない。
私とヒロちゃん||別役弘香と書く||も、体育館2階のベランダから聴いていた。
1曲目が終わり2曲目が始まると、すらりとした長身の美少女が、アルトサックスを手
に前に出てきた。彼女は、キビキビと左右に魅力的なステップを踏みながら、ゆるいウ
エーブのかかった長い髪を揺らし、少しも乱れずにソロを演奏する。
「……かわいい」
思わず声に出して言ってしまう。ルカちゃん||渡辺瑠果と書く||の生き生きとした
美しさに、ため息が出るほど見惚れてしまうのだ。
同じベランダで見ていた他の女子たちの話し声が聞こえてくる。
「ルカちゃんってさ、うちらの学校の姫だよね」
「足細いし、長いし」
制服着ててもモデルさんみたい」
「ね~~~」
と、声を合わせて領き合っている。
ヒロちゃんは、横の私にしか聞こえない声で、
「細くも長くもない子からの妬みがすごそう……」
と、本のページをめくる。
女子たちの声が、続けて聞こえる。
「ルカちゃんってさ、自然とみんなのまとめ役になってるよね」
「おひさまみたいにみんな集まってくるからだよきっと」
ヒロちゃんは銀縁メガネの奥で眉を顰めた。
「そういうのうっざ。その点、鈴は、月の裏側みたいだから誰も寄ってこなくて楽だね」
「ごはっ」
突然流れ弾をくらった私は、 愕然とした己の顔を横に向けた。
「ひ、ヒロちゃん」
「ん?」
「毒舌、私にはもう少し、マイルドにならないかな……」
「毒舌? 誰が?」
そのとき、演奏を遮るほどの大声が、中庭に響いた。
「カヌー部に入りませんかぁー?」
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