sábado, 31 de julio de 2021

 つぶやいた。


ねえ母さん。 私、 なんで歌えなくなってしまったんだろう?

あれほど歌うことが楽しく、 必要に思えたのは、 母さんが聴いてくれていたからだとい

うことは、 明らかだった。


だが、 歌えないからと言って、 客観的には、 だからなんなのだ、 ということになる。 何

も困らないじゃないか。 歌えないとしても、 誰も何も咎めない。 ただ人生は続いてゆくだ

けだ。


地元の中学校に進学した。 ジャンパースカートの制服が、 息苦しかった。

小学校の同級生は、 進学とともに街へ行く子が多く、 地元に残る生徒は半分もいなかっ

たので、 中学でも複式学級になった。


ゅえに合唱の練習などは、 教頭先生の伴奏で、 全学年で歌うこととなった。 全学年と

い っても蜷人だった。 蜷人しかいないせいで、 私は歌わずに、 口パクだけしていることが

すぐにバレた。 なぜ歌わないのか、 事情を聞かれたが、 何も言わなかった。 怒られるかと

思ったら怒られなかった。 次の練習から私だけ見学してよし、 ということになり、 音楽教

室の片隅でひとり座りみんなが練習するのを眺めていた。 黙っているだけのヽ 無気力な少

女に見えていたかもしれない。


でもその内部では、 言葉にならない訳のわからないものが、 たくさん渦巻いていたのだ

と思う。 下校し帰宅するとたまらず母さんの部屋に入った。 黄昏の光が窓から眩しく差し

込んでいた。 使わなくなった食器や季節の家電なんかを収めた段ポールが、 テープルの上

に積み上げられている。 すっかり物置と化していた。 あれから何年も経った。 経っ てし

まった。


私はそこにある大量のレコードを、 棚の端から 一 枚ずつ出して順番に聴いた。 何日も、

何日も、 何日も。 ひたすら聴くことによって、 荒ぶる気持ちをなんとか鎮めていた。

だがある日、 もう耐えきれないと思う瞬問があった。 帰ってくるなり母さんの部屋に

入ってキーポードの前に座り、 レポート用紙を素早く開くと、 胸の中の訳のわからないも

のを吐き出すために、 ペ ンで猛然と書き始めた。 吐き出さないと窒息しそうだった。 紙を

めくって 一 心不乱にどこまでも書き続けた。


ー母さんはヽ なぜ私を置いて川に入ったのか? なぜ私と生きるよりも、 名前も知ら

ないその子を助けることを選んだのか? なぜ私は、 ひとりぽっちなのか。 なぜ、 なぜ、

なぜー。


紙を継ぎ足し、 ポスト . イットで補足し、 長い長い歌詞を善いた。 湧き上がる音階を長

く長く記譜した。 どちらでもないものは、 絵として吐き出した。 何種類もの渦巻きだっ

た。 川面に浮かぶ渦のようでもあり、 全てを呑み込むプラックホールのょうでもあり、 頭

のてっぺんに空いた穴のようでもあった。 部屋の床は、 歌詞と絵と楽譜が入り交じった紙片で埋めっくされた。


が、 不意に、


「・・・・・・・・・・・~ "“ 」


我に返っ て、 筆が止まった。 たった今、 害き連ねた言葉ゃ絵ゃ音階の無価値さ、 無意味

さ、 醜さ、 どうしようもなさに、 気づいてしまった。


何をゃっているのか? 心底、 辟易した。


紙をビリピリに破った。 いままで書いたものの全てを、 古いスチ]ル製のゴミ箱に躊躇

なく捨てた。 その紙の束は、 今吐いたぱかりのゲロに見えた。


高校生になった。


私は、 私自身がいよいよ無価値に思えた。 制服のネククイがいよいよ息苦しかった。 沈

下僑をうっむきながら渡り、 登校した。


市内の中心にある中髙 一 貫校に、 試験を受けて合格し、 高校から編入した。 そこで、 幼

馴染のしのぶくんと再会した。


「鈴」


「しのぶくん三三」


小学生の頃と高校生になった今では、 しのぷくんは何もかも違って、 背が髙く、 輝いて

見えた。 一方、 私はといえぱ、 あの頃から全く成長していないように思えて、 たまらなく

気恥ずかしく、 ろくに話もできなかった。 私は今まで何をゃっていたのか?

山奥から街に通う新しい生活が始まったのに、 勉強に身が入らなかった。 せ っかく苦労

して試験を受けて入ったのに、 授業中、 っい虚ろに窓の外を見てしまう。 これではいけな

い、 とわかりっっ。


部活はどこにも入らなかった。 そんな学生は極めて少数だった。


帰り際、 部活に打ち込む生徒たちの姿が見える。 陸上部が、 中庭で列をなしてトレーニ

ングハードルを跳んでいる〇 バレー部がグラウンドをランニングしている。 耳にメトロ

ノームを着けた吹秦楽部の打楽器担当が、 廊下でステイックを打ち鳴らしている。 なぎな

た部は格技場で姿勢良く正座し、 ょろしくおねがいいたします、 と練習前の挨拶をしてい

る。 まだ背番号をっけていない野球部の 一 年生は整列して立ち、 先輩たちの練習を食い入

るように兒ている。


どこにも属していない私は、 早足で学校を出た。


既に冬になっていた。


市内の中心を東西に流れる、 鏡川という川がある。 緩ゃかな流れのことが多いので、 対

岸のテレビ塔ゃピルを鏡のょうに映している。 その脇の道を通って駅ヘ の道を帰っている

と、


「キャハ ハ ハ ハ…」


楽器ケースを背負った軽音楽部の女子たちが、 笑いながら軽ゃかな足取りで追い越して

い った。 スクールバ ッグに付けたヽ 猫型のかわいいぬいぐるみが揺れている。 私のスクー

ルバッグに付いているのはヽ 「 ぐっとこらえ丸 」 の安っぽいプラスチック製プレートだっ

た。 「ぐっとこらえ丸」 とは、 壁に手を突いて辛いことに湛える、 たまご型のキヤラク

タ]だ。 湛えすぎたのか、 頭にヒピが入っている。 もちろん、 かわいくはない。

暗く狭い廊下で、


「私、ダメ! ちょっと!」


と私は抵抗したのだが、


「 いいじゃん」


と、 部屋に引っ張り込まれてしまった。 背後で防音ドアが、 バタンと閉まった。

「あっー」


そこはカラオケボックスの派手な室内で、 ピンクとパープルの照明が妖しく回転してい

た。 お香の香りがする。 クラスの女子たちだけの親睦会だと聞いていたが、 ソフアの上に

立ちゆらゅら首を振る女子たちの狂乱の姿を兒せられると、 このテンションの中にはとて

も入っていけない、 と思わされた。


「ペギースーかわいい」


「これ 『U』 で流行ってるゃっだよねー」


壁のモニタ画面には、 『U』 の人気A s、 ぺギースーが、 黒のラバ ードレスを着て歌う

姿が映っていた。 銀色の髪を揺らす、 紫のロ紅と赤い瞳の、 エキセントリックな美女。

ぺギースー? 『U』 ? A s? 流行ってる? 何ひとっ知らない。 まるで自分とは

別世界の出来事のようだ。 すると、


「はい」


と、 唐突にマイクが差し出された。 歌って、 というように。


「え?」


戸惑った。 コートもマフラーも脱いでない。 なのに`


「はい」


またマイクが向けられた。 私みたいなクラスの端にいるような子に` どうして?


「 みんなで歌お?」


「ねえ歌って」


女子たちの影が、 何本もマイクを押し付けてくる。 どういうこと?

「ひとりだけ歌わないっもり?」


「歌えない って、 ウソだよね?」


そういうことか。


何十本ものマイクが次々と、 私の顔に無理ゃり抑し当てられる。


「、つ、つ、つ、 ううううう」


痛い、 止めて、 と言いたかったが、 言葉にならない。


「歌って」


「ねえ歌お?」


「歌えよ」


それらの声が、 恫喝のような響きを帯びてくる。


「歌えって言ってんだろ」


「歌えー」


「歌えっ""」


わあああっ っ!


たまらず声を上げた。


とたん、 マイクが弾け飛ぴ、 床にバラバラと落ちた。


ソフアの上で踊っていた女子たちか、 ハ ッとしてこちらを見た。 面食らったように静ま

りかえっている。


「どうしたの? 鈴ちゃん」


マイクも、 女子たちの影も、 幻のように消え失せていた。


「な、 なんでもない。 ごめん。 ちょ っと:::」


言い終わらないままに、 カラオケボックスの扉を力任せに押し開け、 這うように外に出

た。


歌えない、 ということを、 誰かが聞きっけてみんなに言ったのかもしれない。


バ スを降りると、 粉雪が舞っていた。


停留所からの坂を下ると滑りそうになった。 高知でも、 市内はともかく山奥では、 普通

に雪か降る。


沈下橋を渡ると、 パキッ、 と薄い氷か割れる音がした。 コンクリートの橋の表面か凍っ

ている。


寒い。


みんなと馴染めるほど器用じゃないし割り切れもしない。 かとい っ て、 ひとりぽっちで

いられるほど強くもなく、 覚悟もなく、 達観もない。


私、 勝手なことなんてしないよ。 歌えない って噂` そんなの嘘だよ。 昔から少し、 自分

に自信がないだけ。 みんなと仲良くしたいもん。 ほんとだよ。 わかっているよ。 もちろ

ん、 わか っ ている。 だから。。。。


「あ。。。あ…」


僑の真ん中で、 衝動的に、 声を吐き出した。


「あああ…あ…ああああ」


息を吸い込むと、 冷たい空気か喉にしみた。 それでも私は、 川に向かって歌った。

「あ…………あ……ああああああ.:…あ…:…::」


歌った?


歌になんかなっていなかった。 ただのうなりだ。 カバンか肩から滑り落ちた。 歌えば、

許してくれるのだろうか。 歌えぱ、 みんなと仲良くできるのだろうか。 こんなところでひ

とり歌ってもどうにもならない。 押し潰される前の、 断末魔の叫ぴみたいだ。 それでも、

母さんと 一 緒に歌ったあの曲を、 声を絞り上げて歌った。 あの頃は、 幸せだった。 今は違

、っ。 川の流れに粉雪が渦巻いていた。 不意に、 目の前か真っ暗になった。

冑の奥から吐き気が込み上げ、 に両手でロを押さえた。


「、つ、つ、つ、っ、っ・・・・.・""」


膝をっいてうずくまった。 が、 逆流した胃液の勢いに堪え切れなかった。 橋の下の清流

に向けて、 体を前に出して、 嘔吐した。


吐瀉物がポタポタと水面に落下して、 いくっもの波紋を作った。

胃の中のものを全て吐き切ると、 そのまま橋の上に倒れた。


髪は乱れ、 ロは胃液にまみれて臭い。 もう、 辛い。 何もかも、 なしにしてしまいたい。

震えながら、 唸るように泣いた。 涙の雫が、 冷えた頼に滲みて、 ヒリヒリと痛かった。 私

なんかいなくなれぱいい。 粉雪が折り重なり積もるわずかな音か、 すぐそぱで聞こえた。

そこに、


プーン。


カバンから滑り落ちたスマホに、 通知か来た。 ヒロちゃんからのメッセージだった。

《これ見て鈴。 すごすぎてマジで笑うから》


どこかへ のリンクが貼られている。




『U』


家に戻って、 Macbook を開いた。

寒さに震えながら` ヒロちゃんから送られたリンクをクリックした。

ブウウウウン...` という波動のような音と共に、 真っ暗な画面に、 『U』 の文字か

ゅっくりと浮かび上がる。

「‥・・‥ 『U』 ?.」

吐瀉物にまみれたボロボロの私の顔か、 モニタの光に照らされた。

インビテーションぺージが立ち上がりゝ メッセージか表示される。

『U』 はもうひとっの現実

「A S」 はもうひとりのあなた

現実はゃり直せない

でも 『U』 ならゃり直せる

さあ、 もうひとりのあなたを生きよう

さあ、 新しい人生を始めよう


さあ、 世界を変えよう一


「・・・・・・・・・・・・"" 」


私は、 寒さも忘れ、 見入っていた。


横に置いたスマホが連動して、 自勁的にアプリが起動した。


Macbook のモニタに、 登録画面が現れた。 「NAME」 とある。


「名前…」


躊躇した。 抵抗感かあった。 が、 気持ちとは裏腹に、 キーボードに手か仲ぴる。


「S」 「u」 「z」:‥:。


たどたどしく打ち込む。


「U」 。


その瞬間、 強い不安が沸き起こ った。 私は衝動的にデリートキ]を連打して消去し、 開

いたドアを閉めるように Macbookを閉じた。


身を丸め、 震えながらため息をっ いた。


「わたし、 ルカちゃんのとなり」


中庭のべンチにヽ ルカちゃんを見っけた。


女子たちが身を寄せ合って、 ルカちゃんを囲んでいる。 もうすぐ 一 年生も終わりだか

ら、 仲良しみんなで写真を撮ろうということのようだった。


「渡辺さんの横座ろー」


「えーずるいー」


「ルカちゃんのそばかいいー」


ピロテイの柱の陰から私は、 輝くルカちゃんの姿を憧れるように見た。 ルカちゃんと一

緒に写真に写ることのできる彼女たちが、 羨ましかった。


「漉辺さんこっち向いて。 撮るよ 」


と、 カメラ役の女子が促して、 ルカちゃんは前を見た。 それから、 ふと気づいたように

こちらに向かって大きく手を振った。


「 あ。 鈴ちゃーん!」


「え?・」


ぎょ っとなる私に、 ルカちゃんは手招きした。


「鈴ちゃんも入ってー」


女子たちが 一斉に、 私を見た。 なぜ? と顔に書いてある。 私は慌てて柱に隠れゝ それ

から少しだけ顔を出して、 手のひらを向けた。


「い、 いいよ、 私」


でもルカちゃんは構わず、 手招きを続けた。



「早く早く!」


あとで、 画像が送られてきた。


ルカちゃんを中心に、 かわ いくVサインする女子たちの集合写真。


そこに交じって、 そぱかすだらけの私の顔がある。 ルカちゃんのすぐうしろの位置。 背

後霊のように、 気まずくVサインしている。


再度、 『U』 に登録しょうとした時、 顔写真を求められた。 自分の顔写真なんて持って

いない。 カメラをわざわざ自分に向けることもない。


なので、 この時の画像を、 登録爪に使った。


顔認識マーカーが全貝に表示される。 どれがあなたですか、 とある。 カーソルを動かし

て、 ルカちゃんの背後のそぱかす顔を、 選択した。


《新規A Sを、 A ・ ーか自動生成しています……》


と文字が出る。 併せて、 《A sとは》 、 と、 注釈がある。 《 『U』 におけるアバ夕ーの

呼称であり、 もうひとりのあなたです》


もうひとりの、 あなた。


まもなく、 レンダリングされたA Sが表示された。


「あれ…三?」


そこには、 私なんかとは遠くかけ離れた、 恐ろしいほどに美人のA sかいた。 私じゃな

く、 むしろルカちゃんにそっくりと言っていい。


「ルカちゃん? なんで三三」


A ・ ーは、 私の画像のすぐそばに写っていたルカちゃんと混同したのだろうか? だと

したら、 なんてそそっかしい人工知能だろう。 間違いは正さねぱならない。 すぐに戻るボ

タンを連打した。


「違う。 戻る戻る。 キヤンセル三三」


が、 不意にボタンを押す手が止まった。


A 8の両頬に、 赤い斑点のような模様がヽ はっきりと描画された。


「そばかす三三」


思わず自分の頼に手をあてた。 私のそぱかすなのではないのか?


「ひよっとして、 私…三?」


登録画面の 「NAME」 の棚に、 ゅっくり 一 文字ずっ、 打ち込んだ。 今度は 「 S u z

u」 ではない。


「B」 「e」 「ー」 「ー」 。


「B eーー」 = 「鈴」 。


「三三ベル」


名前を決めると、 目の前のA sが、 急に愛おしく思えてくる。























lunes, 26 de julio de 2021

「ぶはあっ!」
薄い布団を接ね除けて起き上がり、大きく息継ぎをした。
そのせいで低い天井に頭をぶつけそうになった。ここは田舎のみすぼらしい屋根裏部屋
で、屋根を支える垂木がベッドのすぐ上に迫っている。
「はあっ、はあっ……はあ……」
朝だ。日の光がまぶしい。
さっきまでの娘びやかな世界の感触が残っている。その残淳に手を伸ばしたくて、諭を
閉じる。確かに私は、クジラの鼻先に立ち、歌っていた。華やかな衣装を着て、のびのび
と、思いのままに、歌っていた。
験を開けると、目の前にあるのはシーツの上の、表示の消えたスマホだ。その暗い表面
に、日に照らされた自分の姿が映り込む。中学校の頃から着ている色褪せたダサいパジャ
マ。寝癖のついたボサボサの髪。半開きの目。
そして、頬に散らばった、そはかす。
それは私をとても憂鬱にさせる。胸がふさがれそうになって、ため息が漏れる。
「……はあっ」
すると、
「鈴1?」
1階から父さんの声がした。「どうした1?」
焦る。
ひょっとして漏れ聞こえてしまっていたのだろうか?
もちろんここは防音室なんか
じゃなく、ただのみじめな7歳の女子の部屋にすぎない。布団の中にくるまるしか、音が
外に漏れるのを防ぐ方法はない。 いつもより声が大きかっただろうか?
ら……。後悔の冷や汗が背中にじっとりと浮かぶ。
「な、何でもない……=」
ベッドの上で四つん這いのまま、慌てて返事する。
不審に思われて2階へ上ってきたらどうしよう? いや、来ないとは思うけど。でもも
「あっ」
ベッドから手が滑り、ドサッ、と顔から無様に落ちた。
制服に着替えて、1階に下りた。
父さんの姿はなかった。仕事へ行く準備をしているのだろう。
縁側の戸を開けてフーガを外に出してあげて、ひんやりした朝の空気を入れた。リビン
グとダイニングを軽くほうきで掃き、テーブルに出しっぱなしの雑誌を片付けた。お湯を
沸かしているあいだ、庭の花を花瓶に挿し、台所の写真立ての横に置いた。マグカップに
ティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。紅茶の香りを含んだ湯気が沸き上がる。写真立ての中
で、今日も母さんが微笑んでいる。
庭でじっと待っているフーガに、ごはんをあげた。白に薄い茶色の毛が混じっているせ
いで、遠目には薄汚れて見え、お風呂に入れてもらえない可哀想な犬に見える。右の前足
の先が、怪我で失われている。イノシシ用の罠にはまって、ちょん切れてしまったのだ。
ピンク色の地則肌が見えている足を浮かせ、危うくバランスをとりながらごはんを食べてい
る。保護犬としてうちにもらわれてくるまで、やっぱり可哀想な犬だと思われていたのだ
ろうか。縁側に座って紅茶を啜りながら、フーガをじっと見ていた。
日焼けした肌に紺のTシャツを着た父さんが、仕事道具が入ったリュックを肩に掛け、
ガレージに出てきた。
「鈴、送っていこうか?」
フーガを見たままマグカップから口を離さずに、私は答えた。
「夕ごはんは?」
「……いい」
「……そっか。じゃあ、行ってきます」
父さんは、困り顔だったのだろう。見なくてもわかる。四輪駆動の軽自動車のエンジン
がかかる。バックしてから切り返し、坂道を下りてゆく。小石をぱちぱち弾くタイヤの音
が、遠ざかっていく。
目を合わさなくなって、どのくらいになるのだろう。まともに話さなくなって、どのく
らい経ったのだろう。一緒にごはんを食べなくなって、いったいどれだけの時間が流れた
のだろう。
フォン、と通知音がした。
スマホの画面に、ポコッ、とフキダシが出る。
《ベルは、仮想世界『U』が生み出した、最高の美女》
世界中の言語が、瞬時に翻訳される。
《非常にユニークで稀な楽曲》《ベルの歌は自信に満ち溢れている》《0億アカウントの
中で一番注目される存在》
フキダシは先を争うように次々と上がり、瞬く間にベルのアイコンの周りを埋め尽くし
た。
でも、私には喜びも達成感も高揚感もない。ベルがどんなに注目を集めても、なんの関
係もない。縁の欠けたマグカップに口をつけたまま、自分の殻に閉じこもる。
あるひとつのコメントを載せたフキダシが、一際大きく膨れ上がっていく。最も注目さ
れるコメントを拡大して表示する、フキダシの機能のひとつだ。
凄まじい数のフコメントの中で、最も多く注目されたコメントは、
《彼女は一体、誰?》
だった。
クンッ、とフーガが顔を上げた。
私の塞ぎ込んだ様子を、気にしているように。

世の中のほとんどの人が知らないと思うけど、四国·高知は、覆いかぶさるように連な
る険しい山々と、その谷間を流れる青く輝く美しい清流が育む、豊かな風土が自慢の県
だ。一五○年以上前には、それまで長く続いていた日本の封建社会を劇的に構造改革した
人物を幾人も輩出したことがあり、これもまた自慢のひとつだ。日照時間は全国でトップ
クラス。お酒の消費量もトップクラス。そのせいか人柄はあっけらかんとして、気さくで
明るいと言われる。でもそんな中にだって、暗い子もいれば、いつも下を向いている子
だっている。
そのひとりが、私だ。
30軒ほどの家々が山の斜面に連なる集落の片隅に、私の家はある。見下ろした先に仁淀
川という川が流れていて、沈下橋で対岸と繋がっている。沈下橋とは、欄干のない橋のこ
とで、川が増水して橋が沈んでしまっても流されないようにできている。私はこの橋が沈
まない限り、毎日渡っている。今日も仁淀川の流れは、静かで、青い。
たまに観光客がレンタカーでゃって来て、わー締麗、とか、ホントに青いんだねー、と
か言って、沈下橋の上で何枚も写真を撮っている。素敵な村だよねー、とポーズを取る。
彼女たちはこの地域の真実を知らない。
スクールバッグを脇に挟んで石段を下り、急な坂道をパタパタとローファーを鳴らして
歩く。掃き掃除をしている近所のおばあさんが、あら、鈴ちゃんおはよう、とか、いって
らっしゃい、とか、かつては声をかけてくれた。でも今はない。多くの家の雨戸は、固く
閉じられている。亡くなったり、市内の方に引っ越したりして、徐々に住む人が少なく
なっていった。仁淀川の流域には、そんな集落がいくつもある。90年代初めに「限界集
落」という言葉を、ある社会学者が生み出したのも、この近くだと言われている。最盛期
と比べて、驚くほど人が減った、と大人たちが言うのを、小さな頃から何度も聞かされ
た。ここは日本中のどこよりも早く、人口減少、少子高齢化社会の最先端を突っ走ってい
る。それは紛れもない事実だ。
坂道を上り、国道に出たところに、停留所がある。錆びついた時刻表には、朝と夕方に
しか時間が記されていない。乗り過ごしたら、遅刻どころじゃない。
しばらくして、バスがやって来た。うしろの、いつもの席に座る。車内は、誰も乗って
いない。停留所を次々と通過していく。乗ってくる人も誰もいない。揺られながら、運転
席のそばの掲示板を、ぼんやりと眺める。
『このバス路線は9月末日に廃線になります。○○交通』
やがて誰も住まなくなる場所に、私は住んでいる。荒波が迫る切り立った崖のすぐそば
に立たされている。いよいよこれ以上はない、世界の果てにいるような寄る辺のない気持
ちになる。
バスを降り、JR伊野駅の改札を通って、ホームに停車する汽車(高知では列車のこと
を汽車と呼ぶ。正確には軽油で走るディーゼル車)に乗り換える。がら空きの車内の床に
差し込んだ朝の光が、反射して振動している。停車する駅ごとに少しずつ、他校の制服を
着た高校生や中学生が乗り込んで来る。街の中心に近づくほどに、床の光はだんだん見え
なくなり、2両編成の車両は、お客さんでいっぱいになる。車内アナウンスが、私が降り
るべき駅の名前を告げる。
学校への道で、大勢の同じ制服と合流する。一緒になって緩やかな坂道を上る。私はそ
の中のひとりだ。そのことは私に、とても安心を与えてくれる。
夏の日差しが、眩しい。
去年の秋。
中庭のシンボルツリーの前で、吹奏楽部が演奏していた。それをたくさんの生徒たちが
取り囲んで聴いている。
吹奏楽部の発表はいつも人気だ。ただ演奏するだけではない。奏者全員が、演奏に合わ
せてステップを踏む。躍動感溢れる楽しげな踊りだ。どの楽器もステップをピタリピタリ
と合わせていて、それでいて演奏がよれたりぶれたりすることがない。
私とヒロちゃん||別役弘香と書く||も、体育館2階のベランダから聴いていた。
1曲目が終わり2曲目が始まると、すらりとした長身の美少女が、アルトサックスを手
に前に出てきた。彼女は、キビキビと左右に魅力的なステップを踏みながら、ゆるいウ
エーブのかかった長い髪を揺らし、少しも乱れずにソロを演奏する。
「……かわいい」
思わず声に出して言ってしまう。ルカちゃん||渡辺瑠果と書く||の生き生きとした
美しさに、ため息が出るほど見惚れてしまうのだ。
同じベランダで見ていた他の女子たちの話し声が聞こえてくる。
「ルカちゃんってさ、うちらの学校の姫だよね」
「足細いし、長いし」
制服着ててもモデルさんみたい」
「ね~~~」

と、声を合わせて領き合っている。
ヒロちゃんは、横の私にしか聞こえない声で、
「細くも長くもない子からの妬みがすごそう……」
と、本のページをめくる。
女子たちの声が、続けて聞こえる。
「ルカちゃんってさ、自然とみんなのまとめ役になってるよね」
「おひさまみたいにみんな集まってくるからだよきっと」
ヒロちゃんは銀縁メガネの奥で眉を顰めた。
「そういうのうっざ。その点、鈴は、月の裏側みたいだから誰も寄ってこなくて楽だね」
「ごはっ」
突然流れ弾をくらった私は、 愕然とした己の顔を横に向けた。
「ひ、ヒロちゃん」
「ん?」
「毒舌、私にはもう少し、マイルドにならないかな……」
「毒舌? 誰が?」
そのとき、演奏を遮るほどの大声が、中庭に響いた。
「カヌー部に入りませんかぁー?」